49日目:死んでからなら
四十九日と言えば、そういう日。
極楽浄土へ行けるかどうか、閻魔大王さんが判定を下す日だそうだ。
この日辺りで、亡くなった方が成仏するとかそんな話も聞いた事がある。
7週間というのは、いくつかの世界観の中で節目の日なのかもしれない。
私は無宗教なので地獄だとか極楽だとかの詳しいことは分からないが、自分はどうだろう。
何か節目を迎えているだろうか。
断酒からもうすぐ、7週間が経とうとしている。
何かは変わっただろうか。
何かは取れただろうか。
何かは得ただろうか。
正直なところ、ハッキリとしたことは分からない。
自分のことってのは、意外と分からないもんだなと思う。
自分のことは自分が一番分かってらぁ!なんてセリフは良く聞くが、私はそのタイプではないということか。
なので、明確に「これ!」とはなかなか言い難いが、何となく程度には「悪かないな」と思っている。
分かりやすいところで「悪くない」と思うのはやはり体調だろう。
もちろん、表面的に起きる問題は深刻なものが多いし、途方に暮れてしまうような日もある。
あるが、これは飲み続けていたならば気付かなかったか、蓋をしてやり過ごしたかして、もっと取り返しのつかない事態になっていたのかもしれないと思う。
今気付いて向き合う日々を過ごすことになっているのは、一面は辛いようでいて、もう一面は有難い事なのではないかとも思うのだ。
酔って麻痺した頭で考えたところで解決策など思いつかないし、それ以前にそもそも考えようという気にすらならないのだから。
ただ一時的に忘れ、問題を見ないようにするだけ。
今日はとりあえず飲んで忘れよう、明日スッキリした頭で考えた方がいい、などと自分を正当化し言い訳し、ただ一時的な高揚感に身を委ね、酔いつぶれて記憶も断片的に失くす。
「明日考えよう」の明日は、酔いつぶれる日々を過ごす限り永遠にやって来ない。
それでも、飲まずに素面で向き合おうとした時、問題の上っ面ではなく「本質」を見よう、見つけよう、そう考える。
同じ「考える」にしても見るところ、見る向きが変わる。
これは、私にとっては新しい発見だった。
発見したからと言って何か名案が浮かんだのかと言われれば、残念ながらそう簡単には行かないが、それでも日々向き合い考え時にぶつかっても、飲んだくれていた時よりは何かが少しずつ違う。
酔った勢いでまともに話も聞かずブチ切れることもないし、話が支離滅裂になることもない。
話はたとえほんの少しでも、進展する。
遠い道のりも、まずは一歩から始まる。
その一歩がたとえ1ミリだろうと、進むと進まないでは大違いなのだ。
現段階では「良くも悪くも」と言わざるを得ないが、停滞していた何かが動き始めるということは確かだと思う。
今までのことは閻魔さんにブチ怒られるだろうが、これからの私は…ちょっとくらい成長したい。
今更でも。